5. 世界宗教の歴史 (2):キリスト教の成立と展開
資料確定:2025-10-28 08:06
授業内容
目次
5.1. キリスト教の世界分布
5.2. 高校の世界史における関連記事
5.3. イエス・キリストの生涯
5.4. 福音書
5.5. キリスト教の歴史的展開
5.5.1. 諸派展開の概略
5.5.2. キリスト教の2000年
5.6. キリスト教の基本用語
5.1. キリスト教の世界分布
(参考:宗教学Ⅰ)キリスト教>3.2. 主要な宗教の分布:(以下に再掲)
キリスト教(宗教人口 世界第1位:世界人口の31.5%)
参考:英語での概説
キリスト教の世界分布図(エリアごと)
http://assets.pewresearch.org/wp-content/uploads/sites/11/2012/12/04_chr-map1.png
地域別のキリスト教徒の人口
https://assets.pewresearch.org/wp-content/uploads/sites/11/2012/12/chr-pop.png
(地域/キリスト教人口/地域の全人口/全人口に占めるキリスト教徒の割合)
キリスト教徒の多い国ベスト10
https://assets.pewresearch.org/wp-content/uploads/sites/11/2012/12/chr-10.png
(国名/その国のキリスト教人口/その国の人口に占めるキリスト教徒数の率/世界のキリスト教徒数に占めるその国のキリスト教徒数の率)
5.2. 高校の世界史における関連記事
キリスト教の歴史の入口として
例えば、『タペストリー』19訂版(過去の版でもほぼ同じ)
59: 世界の宗教
74: キリスト教の成立・発展
(136: ヨーロッパの風土)
(137: ゲルマン人の大移動)
138: フランク王国 ―西ヨーロッパ世界の成立―
139: ビザンツ帝国 ―コンスタンティノープル1000年の輝き―
141: スラヴ民族の動向 ―東ヨーロッパのキリスト教化―
143: ローマ=カトリック教会 ―教皇は太陽、皇帝は月―
144: 十字軍とレコンキスタ ―西ヨーロッパ世界の膨張―
152: 中世ヨーロッパの文化 ―すべてがキリスト教中心―
(154: 大航海時代 ―アジアの栄華にあこがれて―)
(158・160:ルネサンス)
162: 宗教改革 ―中世カトリック的価値観の否定―
169: 三十年戦争 ―最大最後の宗教戦争―
5.3. イエス・キリストの生涯
イエスに関する史実
イエスに関する歴史資料はないにひとしい。
史実として比較的確実視されていること(「イエス」『岩波キリスト教辞典』)
〈ナザレのイエス〉は前4年以前の誕生。
母はマリア、父はヨセフで木材加工業者。
出生地はおそらく両親の町ナザレ。
弟妹が最低6人いた。
当時のユダヤ人の常として、父の職業を幼い頃から学んだが、父はイエスがまだ若年のうちに亡くなったらしい。
後28年頃、30代のイエスは、突如ヨルダン川付近に出現した洗礼者ヨハネの、終末直前の「回心」を迫る声を伝え聞いて家を出、その洗礼を受けて弟子となった。
しかしその後ヨハネが逮捕されて姿を消すと、師とは別次元の活動を開始、ガリラヤへ赴いて社会の庶民層・没落層・被差別層を中心に新しい人間紐帯(律法の浄・不浄や貴賎の観念を脱落させた「カーニバル」的世界)の形成を開始した。
イエスの理解によると、世の終わりに到来すべき「神の国」が今や現実化し始めたためである。その際彼は、おそらく自らを質的に他の人間と異なる「キリスト」とは意識していなかった。
直弟子たちを集めたのも、神の王国の現実を速やかに、広範囲に知らしめるのが目的であった。
この主張はしかし、律法墨守を主義とする人々には衝撃であった。
短期間のガリラヤ中心の活動の後、30年頃の春、彼は弟子の一グループとともに過越祭を目指してエルサレムに上った。
彼と彼の群衆に危険を感じた神殿の指導層(およびローマ軍?)に逮捕され、ついには反ローマの逆賊として十字架刑に処された。
ともに上京した男性弟子たちはパニックから逃散、少数の女性たちがその最期を遠くから看取ったという。
イエス・キリストの生涯(『新約聖書』)
『図解宗教史』pp.22-23)
1. 受胎告知
ナザレの大工ヨセフと婚約したマリアは、大天使ガブリエルより、処女のまま神の子を身ごもったことを伝えられる。
2. 誕生
夫婦でベツレヘムに滞在中、寝泊まりしていた馬小屋でイエスが生まれた。これを知って東方より3人の博士が礼拝に訪れた。
3. エジプトへの脱出
神の子の誕生を知ったヘロデ大王はこれを恐れ、ベツレヘムにいる2歳以下の子どもを虐殺。天使により危機を知った親子はエジプトに脱出し、難を逃れた。
4. 洗礼
ヘロデ大王の死後、ナザレに戻ったイエスは、ヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネに洗礼を受ける。このとき、聖霊が鳩のようにイエスの頭上へ降臨した。
5. 悪魔の誘惑
荒野で修行を始めたイエスは、40日間にわたって悪魔の誘惑を受ける。イエスはこれに打ち勝ち、ガリラヤで伝道を開始した。
6. 山上の垂訓
しだいに弟子を増やしていったイエスは、ある日、山の上で教えを説いた。「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」「隣人を愛せ」など、キリスト教の神髄が語られたとされる。
7. 奇跡を起こす
伝道の旅のなかでイエスは、嵐をしずめる、水をぶどう酒に変える、5000人の飢えを満たすなど、数々の奇跡を起こし、名声を高めていった。
8. 迫害
律法重視のユダヤ教の教義に疑問を感じ、独自の伝道を行っていたイエスに対し、ユダヤ教の長老らは危機を感じる。イエスの人気が高まるにつれ、イエスへの迫害を強めていった。
9. 変容
自らの受難を予告したイエスは、弟子のペトロらを連れてヘルモン山に登る。するとイエスは光り輝き(変容)、預言者モーセ、エリヤが現れて、彼らと語り始めた。
10. 最後の晩餐
エルサレム入城前夜、弟子たちとの食事中に、イエスはひとりの弟子の裏切りと、これから自身に起きる悲劇を語る。
11. 磔刑〈たっけい〉
弟子のユダの裏切りによって捕らえられたイエスは、磔刑に処された。このとき弟子たちは恐れて逃亡し、ユダは自殺を遂げた。
5.4. 福音書
福音書 福音は、元来は「よい知らせ」を意味する。福音書はイエスの言行を述べたもの。
共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)
「共観福音書『岩波キリスト教辞典』から
3つの福音書が「共観福音書」と呼ばれるのは、これらが全体的な構成やその中に収められた個々の記事において共通点が多く、相互に比較対照(共観)されながら読まれることが多いため。
「…18世紀後半以降の啓蒙主義と自由主義の枠内で行われた福音書研究は、共観福音書に描かれたイエスの生涯の時間的経過と彼の宣教活動の地理的移動には、基本的に史実が反映しているとの前提に立ち、3つの福音書間の微妙な食い違いをマルコ優先説に従って調整しながら、人間イエスの伝記を得ようと努めた。これがいわゆる「イエス伝研究」の時代であり、シュヴァイツァーの名著『イエス伝研究史』に総括された。しかし、20世紀初頭以来優勢となった様式史的福音書研究とその後を受ける現在の編集史的研究は、マタイとルカあるいはヨハネはもちろんのこと、最古のマルコ福音書の著者さえも個別のイエス伝承を手にしていたにすぎず、それらを現在の順番に「編集」した意図は、狭義の史実を再現することではなく、むしろそれぞれ自身の神学的理念を物語の形で表出することにあることを明らかにして、前述の意味での史実性への確信を放棄するに至っている。」
5.5. キリスト教の歴史的展開
5.5.1. 諸派展開の概略
竹下節子『知の教科書 キリスト教』(pp.203-205)
キリスト教的な視点からすると…
セム語族のパレスティナに一神教のユダヤ教を奉じるユダヤ民族が成立した。
その子孫の分家がアラブ民族になって7世紀にイスラム教が生まれる。
このパレスティナのユダヤ人から1世紀にキリスト教が生まれた。
そのキリスト教はヘレニズム(ギリシア語文化主義)化していく。
地中海沿岸にいくつかの主教座ができる。
そのうち西方にあるローマ主教座がラテン(ラテン語文化主義)化していき、もっと北にいたケルト人やゲルマン人を統合して今のヨーロッパの基礎を築いた。
ラテン化せずに東方でヘレニズムのまま残ったのがギリシャ正教だ。
このヘレニズム的東方教会が伝わったのが、東欧の一部やロシアのキリスト教である。
ラテン化したローマ教会の方は、ローマ司教(法皇、教皇)が首長となり、ひとつのまとまりをつくる。
東方教会の方は、大体国単位で総主教が首長になって独立している。
だからロシアはロシア正教会、ルーマニアはルーマニア正教会などと分かれている。
スラブ系の正教はヘレニズムを離れて独自の典礼語を編み出した。
セルビア、シリア、ウクラライナなどにも主教座がある。
エジプトの正教会はコプト教会と呼ばれる。
東方諸教会は初めは特にローマ教会と別物だという意識はなく対等な主教座という立場だった。
各地の総主教座が独立したままだったのでまとまりはなかった。
1054年には東方教会の中心コンスンタティノープル教会が「聖霊が父と子に先行する」という西方の教義を拒否したことでギリシャ正教とローマ・カトリックは分裂し、互いに破門しあった。
ギリシャ正教とローマ・カトリックは1964年になってようやく破門を解き合い、2001年にはローマ法王がアテネを訪れてカトリックが東方教会に対して犯した歴史上の罪について正式に謝罪している。
初期教会の時代に異端とされて分派したキリスト教諸派もあったが、その多くは後で成立したイスラム教にとりこまれて改宗した。
正統であった東方教会も、イスラム教のテリトリーになった地中海沿岸地方では勢力を弱めていった。
これに対して、イスラム教に地中海を制覇されたせいでヨーロッパ内部に向けて発展していったローマ教会のラテン文化圏は、少しずつ力を蓄えた。
そして後に産業革命を経て非キリスト教、非一神教の世界に進出して西洋優越の現代世界を作るまでに至った。
このラテン文化圏内部で起こった分裂が16世紀の宗教改革だ。
分裂したのはプロテスタントと呼ばれる諸派だが、いくつかのタイプがある。
イギリス国教会:単にローマ法王の支配を離れて国王がキリスト教の長におさまった。
ルター派:教会内部の改革を唱えたらローマ法王から破門されてしまったので分派した。
カルヴィン派:最初からローマ法王と袂を分かって分派した、より厳格で過激。
など。
ラテン文化から離れてそれぞれの国の俗語が典礼に使われ始めた。
イギリス国教会内部でカルヴィン神学をもとに改革を唱えたのはピューリタンだ。
ピューリタンを中心に移民や植民した先のアメリカ大陸もキリスト教国になった。
その後、プロテスタントには無数の分派が派生して、別系統も出現した。
その主流はルター系、カルヴィン系、ピューリタン系、イギリス国教会(聖公会)である。
5.5.2. キリスト教の2000年
竹下節子『知の教科書 キリスト教』pp.234-243
◉ 1〜3世紀
福音を伝える運動の開始
パレスティナのエルサレムでユダヤ教の過越の祝いから50日目の五旬節に、イエスの弟子たちが聖霊からキリストの成した業を改めて知らされ、すべての国にそのことと福音を伝える活動を始めた。
最初は小アジアやローマ帝国内に離散しているユダヤ人に宣教されたが、やがてパウロという伝道者を得て非ユダヤ人の世界にも広まる。
パウロ…「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(「ローマの信徒への手紙」3章28節)…信仰義認
「義」とは法廷用語で、法廷で無罪であると宣せられるということである。
このことは無罪を宣せられた当事者が実際に無罪であるか否かには直接関係がない。
したがって信仰義認とは信者が倫理的に善か悪か、また神を信じているかどうかということには直接関係はないということを含意している。
倫理的に次第に良い生活を獲得するとか、神を信ずるようになるということは、それ自体は望ましいことではあるが、それらは人間の努力でなしうることである。
人間の努力でなしうることに対しては神の助けはいらない。
また現実の問題として、人間は倫理や知性において完全になることができないということがある。
だから人間の状態に関係なく、神が人間を義、つまり無罪と宣すること以外に、人間は救われることはできない。そのことに気づくことが信仰であるとパウロは言ったのである。
そしてこの場合、この信仰は人為的努力で次第に分かってくることでも、まして律法の行いによって獲得されることでもないから、それは人間の努力や行為が及ぶ通常のリアリティーとは別のリアリティーの発見、すなわち目からうろこが落ちるような経験になる。(小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社学術文庫、pp.51-52)
2世紀なかば、クレドの採用
迫害を受けながらもローマ、リヨン(ガリア)、カルタゴ(北アフリカ)、アレキサンドリア(エジプト)などの大都市を中心に広まり、2世紀半ばには使徒のクレド(信仰の基礎となる信経)が採用され、最初の異端であるグノーシス派と拮抗しながら神学が築かれていった。
グノーシス派との対抗
グノーシス主義(後藤篤「グノーシス主義」『角川世界史辞典』)
1世紀にローマ支配下の東地中海で起こった宗教思想運動。
2-3世紀に最盛期を迎え、諸セクトが生まれた。
星辰界を含めた可視的物質世界をその創造主ともども悪とし、至高神が支配する霊的世界と敵対的に捉える反宇宙的二元論を根本とする。
人間は本来は至高神と本質的に一つであり、その自己本来の姿についての認識(グノーシス)を啓示者から与えられると、至高神との合一を達成して救済されると考える。
早くからキリスト教に浸透し、異端とされた。
◉ 4〜5世紀
コンスタンティヌス帝による公認(313年)
ローマ帝国の国教化(380年)
教父の活躍
アウグスティヌス(354-430)…『告白』『神の国』ほか
サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂…バジリカ様式(4〜8世紀)[タペストリー、p.152]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/Roma_-_2016-05-23_-_Basilica_di_Santa_Maria_Maggiore_-_2957.jpg/1920px-Roma_-_2016-05-23_-_Basilica_di_Santa_Maria_Maggiore_-_2957.jpg
東西教会のライバル関係
西ローマ帝国の滅亡(476年)
313年コンスンティヌス帝により公認。
キリスト教は都市部を制覇して聖マルティヌスによりガリアに進出。
380年にはローマ帝国の国教となり制度としての「教会」が確立し始める。
ドナトゥス派、アレイオス派(アリウス派)など多くの異端を前に教義の明確化が必要とされ、教父と呼ばれる神学者が活躍、公会議(司教会議)が繰り返される。
ローマ司教大レオ[在位440 - 461]がキリスト教統一のシンボル=首長として名乗りを上げた(ローマ法王の始まり)。
324年以来「第二のローマ」になった新首都コンスタンティノープルにいる皇帝や司教は是認せず、東西教会のライバル関係が始まった。
東方教会は単性論者[単性論:受肉後には唯一の本性 (physis) たる神性のみが存在する]やネストリウス派の登場によって分裂していく。
異民族の侵入が続き、476年に西ローマ帝国が滅亡してからはキリスト教がローマ帝国文明を守る継承者としてのアイデンティティを確立した。
◉ 6〜7世紀
ゲルマン系民族への布教
聖大グレゴリウス(在位590〜604)
コンスタンティノープル司教の有力化
モザイク壁画(ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会)(将軍(紫衣の人の左)/ユスティニアヌス1世(皇帝)(紫色の衣)/ラヴェンナ大主教(その右))[タペストリー、p.139]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Meister_von_San_Vitale_in_Ravenna_003.jpg/1920px-Meister_von_San_Vitale_in_Ravenna_003.jpg
聖ソフィア大聖堂(アヤ・ソフィア)(コンスタンティノープル)(塔〈ミナレット〉はのちにオスマン領になったときに付加)[タペストリー、p.139]…ビザンツ様式
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/22/Hagia_Sophia_Mars_2013.jpg/1920px-Hagia_Sophia_Mars_2013.jpg
イスラム勢力の勃興、ビザンティン帝国との対抗関係
(西方)
キリスト教は西欧に移住したゲルマン系民族への布教に成功した。
最初はアリウス派(キリストの神性を否定)が主流だった。
しかし、フランク族を皮切りに、スペインのヴィジゴット、聖者コロンバヌスによるアイルランドのゲルマン、カンタベリーの聖アウグストゥスによるアングロ=サクソン、最後にイタリアのロンバルドが、次々にローマ教会に帰依してヨーロッパの基礎となった。
聖大グレゴリウス(在位590〜604)がすべての司教に対するローマ司教の首位権を確立した。
東方教会はキリスト教の属性をめぐってさらに神学論争が起こって分派したが、コンスタンティノープル司教が他の教会の指導的立場を獲得した。
しかし、コンスタンティノープル司教とビザンティン帝国(東ローマ帝国)の皇帝との聖俗の対立はつづいていく。ビザンティン帝国の版図は7世紀に生まれたイスラム教勢力によって大幅に削り取られることになる。
◉ 8〜9世紀
ローマ教会、カロリング王朝を支持
シャルルマーニュの戴冠
Jean Fouquet「カールの戴冠」(1455-1456)[タペストリーも参照]
https://uploads4.wikiart.org/images/jean-fouquet/coronation-of-charlemagne-1460.jpg
教会組織・修道会組織の改革
ボヘミア・モラヴィアへの布教
ローマをねらうロンバルド族に脅威を覚えたローマ教会は、イベリア半島を制覇したアラブ軍からヨーロッパを守ることで力をつけたカロリング王朝を支持し、同盟を結んで教皇領を獲得した。
800年にはシャルルマーニュ(カルル大帝)がローマ法王レオ3世によって戴冠し、ドイツやスラブもキリスト教化して、ローマ教会を守る形の世俗ヨーロッパが誕生した。
教会組織は聖ボニファティウスによって改革され、聖ベネディクトが修道会組織を改革した。
東方教会はさらに神学論争をつづける。
聖像破壊(イコノクラスト)論争で一時分裂した。
ボヘミアやモラヴィアへ布教をつづけた。
彼らのもたらしたキリル文字はブルガリア、セルビアへの布教を容易にした。
しかし、地中海をはさんでの東西の教会の対立度はますます激しさを増していく。
◉ 10〜11世紀
神聖ローマ帝国の成立(962)
現実的にはドイツで王となったものがローマ教皇の戴冠をうけ、皇帝としてドイツおよびイタリアに君臨する仕組みをさした。そのため、ドイツ国王はつねにイタリア政策を余儀なくされ、ドイツ国内の統治に専念することができなかった。だが、イタリア政策の結果もブルグンド、北イタリアないしはシチリアを一時的に支配するにとどまり、むしろドイツ国内の分権的傾向(領邦国家化)をいっそう推し進めることになった。」(『詳説世界史研究』p.187)
グレゴリウス7世(在位1073〜85)による改革
マケドニア王朝(〜1057)のもとで正教会が安定
西方では世俗の領主の権力が強くなり、教会はまずイタリアの封建領主に牛耳られた。
ゲルマン系神聖ローマ帝国の成立(962)以後はドイツの封建領主の操り人形と化した。
クリュニー修道会など少数の修道会のみがキリスト教の理想を保ちつづけた。
教会はそこから力をくみ取ってグレゴリウス7世(在位1073〜85)による大改革が実を結んだ。
ドイツの皇帝との権力争いを繰り返しつつ教会は世俗に対する優位を確立した。
東方ではマケドニア王朝(〜1057)[ビザンツ帝国の帝室]のもとに正教会が安定を取り戻した。
ビザンツ帝国は、小アジアのシリアをイスラム勢力から奪い返し、ブルガリアに宣教した。
988年にはキエフ領主の洗礼によってロシアもキリスト教化した。
(聖ソフィア大聖堂[キエフ]:11世紀に建立)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/05/St._Sophia%27s.jpg?download
しかし東西両教会が復権し安定した11世紀には互いの権威を認め合うことが困難になり、言語や文化や典礼も離れてしまったので、1054年の東西教会大分裂に至った。
◉ 12〜13世紀
十字軍
レコンキスタ運動
巡礼ブーム(スペインのサンティアーゴ・デ・コンポステラ)
ゴシック建築の開始
ノートルダム大聖堂(1163年、内陣部から起工)
(大聖堂のHP)https://www.notredamedeparis.fr/
(大聖堂の内部):Wikipediaへのリンク
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Notre_Dame_inside.JPG/1600px-Notre_Dame_inside.JPG
トマス・アクィナス
1225 - 1274
中世のスコラ神学者。
東方教会、十字軍による被害
コンスタンティノープル陥落(1204年)
西欧では封建国王とローマ教会の確執がつづく(1170年、カンタベリー司教トマス・ベケットの暗殺など)。
ヨーロッバをキリスト教でまとめるための3つの出来事が起こる。
パレスティナの聖地への十字軍(1095〜1270)
イベリア半島をアラブ人から回復するレコンキスタ運動
巡礼ブーム(スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ)
フランスでは敬虔な聖ルイ王が出て、ヨーロッパ中に広まるゴシックのカテドラル(司教座教会)建築が始まった。
キリスト教は知的にも西欧の牽引力となった。
神学大学が栄えた。
アリストテレスの論理学と神学との統合がトマス・アクィナスによってなされた。
ドイツ騎士団が北欧に宣教した。
フランシスコ会がインドと中国に初めて宣教師を派遣した。
東方教会はローマ教会による十字軍のために被害を受けた。
コンスタンティノープルは1204年に陥落して短期間ラテン帝国(〜1261)にされてしまった。
その後、ローマ教会は東西教会再統合を呼びかけたがまとまらなかった。
◉ 14〜15世紀
印刷術の発明
アヴィニョンに教皇庁の移動(1309〜1417)
教会分裂
トルコによるコンスタンティノープル支配(1453〜)
モスクワ大公
ルネサンスのユマニズムと科学の発展と、国々の教会離れの要求を前にして、西欧では宗教の力が弱まった。
印刷術の発明によって信者は教会を通さなくても宗教テキストに触れることができるようになった。
ローマ教会自体も危機を迎えた。
アヴィニョンに教皇庁を移した(1309〜1417)。
ローマとアヴィニョンとに大分裂(1378〜1417)した。
敬虔な流れや神秘主義が生まれ、教会のデカダンスに警告を発した。
『キリスト教のまねび』の著作
シエナの聖女カタリ
(アヴィニョン教皇庁)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/db/Avignon%2C_Palais_des_Papes_by_JM_Rosier.jpg/1920px-Avignon%2C_Palais_des_Papes_by_JM_Rosier.jpg
ビザンティン帝国は力をつけたイタリア商人にシェアを奪われて経済的ダメージを受けた上、トルコの侵略に対してローマ教会の援助を求めるすべもなく、1453年にコンスタンティノープルがトルコの前に陥落した。
トルコの支配下でもビザンティンの宗教は存続を許されたものの宣教は許されず、次第に衰退していった。
それに代わって、カスピ海に至るまでのロシアの覇権を握ったモスクワの大公がモスクワを第三のローマと称して、東方正教会の継承者として頭角を現してきた。
「出版」(『岩波キリスト教辞典』)
「本の中の本」と呼ばれる聖書を信仰の典拠として最重要視するキリスト教は、初代教会から広義の出版に着手した。
当初はパピルスに書写したものを配布していた。
やがて代金をとって販売する業者も現れた。
中世に至ると、各修道会は修道院の事業の一つとして、聖書などの写本の制作・頒布を行なった。
さらに13世紀には大学が誕生し、その教育のための神学書出版が行われた。
15世紀、グーテンベルクの活版印刷術の発明により、聖書をはじめとするキリスト教書の出版・販売は飛躍的に発展した。
さらに近代なると、商業資本の充実が出版産業を生み、世界宣教によって世界各国における聖書翻訳・出版とそれに続くキリスト教書出版を促した。(後略)
「印刷」(『岩波キリスト教辞典』)
木版印刷は朝鮮半島や日本では8世紀のものが確認されている。
また14世紀の朝鮮には銅活字と木活字を併用した印刷本がある。
ヨーロッパに伝播した紙を用いる木版印刷は14世紀にルネサンス運動の中で広がった。
ヨーロッパにおける活字印刷の創始者は、鉛活字とプレス式印刷機を用いたドイツ人グーテンベルクであるとされる。
彼が1455年頃に印刷した『42行聖書』以降、聖書は活版印刷となり、筆耕による写本の時代に比べ廉価な大量生産が可能となり、それにともない教会の図書検閲制度にも変化が生じた。(後略)
グーテンベルク聖書
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Gutenberg_Bible.jpg
「検閲」(『岩波キリスト教辞典』)
(前略)歴史的には、ヨーロッパにおける活版印刷術の発明が図書検閲制度の立法化を促した。
カトリック教会による図書の検閲は、宗教と道徳の問題を扱う著作の内容を、その出版に先立って検討し、教会の教えに反しないかどうかを判断する制度。(後略)
◉ 16〜17世紀
ルターに始まる宗教改革(1517〜)
トリエンテ公会議(1545〜63)
いったん(17世紀)、プロテスタントとカトリックの住み分け
ピューリタン、北米へ
イワン雷帝、ツアー(皇帝)をなのる(1547年)
(17世紀)ロシア正教における改革
西欧ではドイツのアウグスティヌス会士マルティン・ルターに始まる宗教改革(1517〜)が起こる。
ジャン・カルヴァンがこれにつづいた。
このプロテスタント運動の成功を見たローマ教会も、トリエンテ公会議(1545〜63)を開いてカトリック内部の改革を行った。
イエズス会のような改革カトリックの戦士も現れて、アフリカや南米やアジアに精力的に宣教が行われた。(日本とキリスト教との出会いはこの時の改革キリスト教が最初だ。)
カトリックの立て直しが成功したたためにかえってヨーロッパは新旧に分断され、宗教戦争がつづいた。
17世紀にはプロテスタントは北を中心に、カトリックは南を中心に住み分けてなんとかおさまった。
ルター派はキリスト中心主義にカルヴァン派は予定説(救いと滅びは神によって決定されている)を中心にして教会組織を固めていく。
しかしその組織化と権威の確立を嫌って個人の信仰を聖書のみに求めるピューリタン(清教徒)らは、ヨーロッパを脱出して北米に「新エルサレム」を築きに行った。
国教化して政教一致の権威を守ったイギリスから逃れた長老派やクェーカー教徒やバプテスト派などがその主力だった。
東方教会は、イワン雷帝が1547年にツアー(皇帝)の称号を名乗り、聖俗を兼ねた権力者におさまった。
1589年には東方司教会議においてモスクワはコンスタンティノープル、アレキサンドリア、アンティオキア、エルサレムに次ぐ五つ目の独立総首教座として公認された。
17世紀のロシア正教では初期ヘレニズム教会の教父の伝統に戻る改革が始まる。
西欧におけるカトリックとプロテスタントの対立のせいで、東方教会も立場を明確にする必要を迫られた。
プロテスタント寄りになるもの、
教父時代に復古するもの、
ローマ教会と接近するもの(1596年、ウクライナに始まる東方典礼カトリックの誕生など)
が出てきた。
◉ 18世紀
市民革命
キリスト教改革運動(メソジストの登場ほか)
ピョートル大帝によるロシア正教の国教化
ヨーロッパは、懐疑主義や個人主義に基づく啓蒙の世紀に突入する。
特に、古い伝統にとらわれたカトリック教会は新思想の敵だと見なされた。
教会では、それに対抗して内部を刷新し思想リーダーとなる足る人物に恵まれなかった。
教会が国ごとに自立する傾向(フランスのガリカニスムなど)が生まれ、ついに市民革命(1789年のフランス革命)と世俗国家(フランス共和国など)の誕生につながった。
プロテスタント世界では教義への関心が薄くなり、宗教が単なる実践理性の要請(カントなど)と見なされるようになる。
イギリスでのメソジストの登場など改革運動もあり、キリスト教福音主義はアメリカの独立のアイデンティティにもなったが、プロテスタント全体のまとまりはなくなり、ひたすら多様化していく。
東方ではロシアのピョートル大帝がモスクワ司教座を廃して(1721)ロシア正教を国教化し、啓蒙主義の影響を受けたエカテリーナ2世が教会をさらに弱体化した。
しかしロシア帝国の拡大にともない中国、シベリアやアラスカなどに正教の宣教が進められた。
修道会の中では信仰がよく保持された。
コンスタンティノープル司教座はトルコのもとで逼塞をつづけた。
◉ 19世紀
近代国家と和親条約(コンコルダ)を結び対話をつづける中で、ローマ教会は少しずつ再統合を果たした。
1870年に無謬性を付与された法王の権威は大きくなり、ドン・ボスコなどによる聖職者の刷新、修道会の隆盛、ブラック・アフリカでの宣教、聖母信仰の高まり(ルルドの聖母出現など)が見られた。
しかしナショナリズムの盛り上がりや社会主義の台頭、産業革命後の労働力の搾取、宗教意識の変化などの前で教会は試行錯誤を余儀なくされた。
プロテスタントの世界でも自由化が進んだ。
アメリカでは信者主導の活動が盛んになった。
ヨーロッバでは知的活動や神学的研究が深まった。
プロテスタント教会の制度化は弱まり、政教分離や信教の自由が欧米で広がる。
救世軍などの社会活動が組織されると共に、あらたな分裂も始まった。
ロシア正教では教父神学に還る信仰のルネサンスが起こり、朝鮮、日本や、中央アジアのイスラム社会に向けての布教が試みられた。
(参考)函館ハリストス正教会
トルコの勢力が衰えてきたバルカン半島ではギリシャ正教が息を吹き返してきた。
ギリシャ教会(1833)、セルビア教会(1879)、ルーマニア教会(1885)などが、コンスタンティノープル総司教の認可を受けて独立新首教座として次々と名乗りをあげた。
5.6. キリスト教の基本用語(の一例)
*竹下前掲書、p.124、
田川建三『キリスト教思想への招待』、参照
一神教
(「一神教」『岩波キリスト教辞典』より摘要)
「…一神崇拝の要求は聖書的信仰の最大の特色の一つであるが、旧約聖書では、当初は他の神々の存在が前提にされており、そのうえでイスラエルの神ヤハウェ以外の神々の崇拝を禁じる拝一神教的な性格のものであったと考えられる。しかしバビロニア捕囚(前6世紀)前後にはヤハウェ以外にいかなる神の存在をも認めない唯一神教的神観が確立した。」
ユダヤ教、キリスト教、イスラームはそれぞれ旧約聖書からこの意味での唯一神観を継承した。
キリスト教においてはイエスの死後、「神の子」であるイエス・キリストにおける神性と神の唯一性がどう関係するかをめくってキリスト論論争が起こり、最終的には三位一体論の形成につながった。
三位一体
大森正樹「父と子と聖霊」(『岩波キリスト教辞典』)
三位一体論における3つの位格(ペルソナ)をそれぞれ父と子と聖霊とする。
後200年くらいから教義用語として確立された。
父は生み出すもの
子は生み出されるもの
聖霊は発出するもの
三者は位格において区別されながら、同本質的で、一つの神であって、そこには完全な交わりが実現している。
父と子と聖霊という三幅対は、イエス自身が神を親しく父と呼んだこと、また神の霊は旧約以来語られてきたことであり、それが象徴的数字である3のもとに組み合わされたことによる。
このような神の内的関係が、後に、教父により複雑な体系にまとめ上げられた。
汎神論と神の遍在
汎神論: 宇宙と神とを同一視し、それゆえ神の人格性、道徳性、超越性を認めない宗教的信念や哲学説(荻野弘之「汎神論」『岩波キリスト教辞典』)。
この用語が登場したのは18世紀初頭だが、基本的発想は古代から見られる(荻野、同上)。
キリスト教の正統教会の立場からは批判される(荻野、同上)。
神と被造物との関係についてのカトリック神学は、アリストテレスやプラトンの影響を受けている(竹下、p.131)。
神はみずからは造られたものではなくすべてを造ったが、一方、遍在とはあくまでも時空の中での存在を前提にした言葉だ(竹下、同上)。
神はこの世界の外と内とに同時に存在する(竹下、同上)。
知覚不可能であり同時に知覚可能でもある(竹下、同上)。
被造物
宮本久雄「被造物」『岩波キリスト教辞典』
被造物:神によって造られたもの、すなわち万物。
旧約聖書での創造主と被造物との区別において、人間は神と被造界の中間におかれ神に聴従[根源的な言葉(神や良心の声)に聴き従うこと]しつつ被造物を治めるよう求められた。
しかし原罪により被造界の秩序は崩壊した。
新約聖書はキリストによる被造物全体の復興を説く。
すなわち、人間は彼の恩恵に与って再創造され(略)、新しい倫理的生活を送り差別のない共同体の創造に関わる(略)。
自然界の被造物も今はサタン的虚無[悪魔の働きによる虚無]に服しているが、人間の義化により終末時に解放される(略)。
以上を承けキリスト教神学や倫理は、世界と人間本性の回復・変容の条件の一つに、人間における自分の被造性(無性・受動性)の謙虚な自覚を求める。
田川建三、pp.3-4
「人間は被造物である。自分で自分を造ったわけではない。造られた存在である。神によって造られた、という。しかし、たとえ神など存在しないとしても、人間が被造物であるという事実に変りはない。その意味では、人間は自分自身の主人公ではない。…(中略)…人間だけでなく、この世界、この自然界の全体は被造物である。神によって造られた。たとえ、神なんぞ存在しないとしても、この事実に相違はない。被造物は自分の意志で自分をこのように造り上げることができたわけではない。あくまでも、造られた存在である。自然世界が造られた存在だということは、創造主によって造られたのである。たとえ、創造主なる神なんぞ存在しないとしても、人間が神になりかわってこの自然世界の主人公になってよいわけはない。また、なれるわけがない。人間はこの事実に対して謙虚でないといけない。しかし、我々の時代の人間は、まさにこの事実に対する謙虚さを失っている。」
天使
( 『歴史学事典』3)
超越界と人間界の仲介をする霊的存在。
原義は使者であり、神の使いを意味する。
ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で認められている。
旧約聖書の初期の頃には、この使いは善であるのみならず悪であることもあった(詩篇78:49、サムエル記上18:10)。
ゾロアスター教の二元論などの影響により、後には天使は善であるとして、悪魔と対比されるようになった。
天使の働きは、前述のどの宗教でも共通している。
(働き・機能)神を讃えるとともに神に奉仕し、真理を伝え、神の意思を実行して勧善懲悪を行う。
天使と神の関係は、ゾロアスター教と、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいわゆる「セム的一神教」とのあいだにちがいが見られる。
ゾロアスター教では、天使的存在は神から発出し、神的である。
「セム的一神教」では、一神教ゆえ、神と天使とのあいだにはっきりとした区別が想定される。
もっとも、後者においても、旧約聖書に「神の子ら」と呼ばれている(詩篇29:1、89:7)ことをもとに、民間信仰では、天使が神的、半神的なものとして信仰されるといった事態がまま見られた。
悪魔
「神話的には、エデンの園でイヴを誘惑してリンゴを食べさせた蛇が悪魔だと言われている。天地創造の六日目に神が自分の姿に似せてアダムを創り、天使に崇めるようにと言ったのを不服とした大天使サマエルが反抗して悪魔になったということだ。…」(竹下、.139〜)
参考文献:→参考文献#66efba0b06fc7f000047fee4